かたかたねれ

~海みて虹みて~

11年目の大地震。2022年3月16日最大震度6強。再びパニックに陥った私。

2022年3月16日午後11時36分ごろ、大きな地震が発生しました。亡くなった方もいたようで、何かの下敷きになったと言う事ではなく、地震の後に倒れていたという情報なので、驚きすぎて亡くなってしまったのではと思い、つらい気持ちになってました。物的被害はもちろん大変で辛い事ですが、大震災を経験している人は、精神的なダメージが大きいのではないかと辛くなります。

去年大震災と向き合い、自分の中ではそれなりに気持ちがしっかりしたのでは、と思っていましたが、昨日の地震で再びパニックになってしまいました。あまりよく覚えてませんが、とにかく怖くて怖くて震えながら号泣してしまいました。本来なら何よりも子供たちを一番に守らなくてはいけないのに、それができない自分がとてもショックです。胸の上にまた急にゾウがのったようなズシンとした重みを感じ、呼吸も苦しくなってきて吐きそうになりました。子供たちは、机の下に隠れながら、ひどく怖がることもなくお互い笑いながら身を潜めていたのが救いです。

近くで火事でもあったのか、サイレンが鳴り響き、拡声器でなにか指示をしているような声も響き、ただ事ではない感じがして、眠りにつくことができませんでした。

大きな地震の後は、沿岸部に住む実家の家族が心配でしたが、すぐに連絡するのは逆に危険だと思い、あえて連絡せず、テレビの情報を注視していました。

私の家は、特に壊れたりひどく崩れたものがなかったので、すぐに元の生活に戻れましたが、実家のほうでは朝方まで避難所にいて帰ってくると色々なものが散乱していたらしいです。

今回、津波が大したことがなかったので、本当によかった。

しばらくは、同等の地震に警戒が必要らしいので、気持ちをしっかり持って備えたいと思う。

幼いころの性被害、私もありました。幼い娘を持つ親となって日本の性教育の遅れは気になる。

あれは、多分7歳くらいくらいだったと思う。

今では見かけないけれど、その頃田舎のバス停には小さな小屋があり、そこでバスを待つことができた。

そこで、友達と二人で遊んでいると、その出入り口をふさぐように一台の車がとまった。助手席側をこちら側にしてとまり、運転席から助手席の窓を開けて「これなんだかわかる?」と声をかけてきた。友達と覗き込むと、運転席に座った男は、見開き1ページに女の人のお尻が載っている本を見せてきた。

しかも、その男の人の股間には大きな棒のようなものがたっていた。

普段あまり遊ばない年下の子とたまたま一緒にいたので「わかりません」と私がか細く答えるしかなく、出入り口をふさがれている恐怖と不安でいっぱいになっていると、そのまま車は走り去っていった。その事について、あまり話もせずその子とはバイバイしてお家に帰った。3つ年上の姉がいたので、その事を話すと、なぜか「親には言わないほうがいい」と言われ、黙っていた。その後もその話をすることはなかった。

 

成長して、あの時の出来事がなんだったのか理解できた。

当時はその出来事が何だったのかわからず、友達にも話題にすることはなかった。

けれど、その時の恐怖や光景は、思春期になっても鮮明に覚えていたし、その記憶は何十年たった今でも鮮明に覚えている。

 

その後、何度も嫌な思いもした。下半身露出は数えきれないほど、出会った。痴漢にもあった。

こんな怖い思いは娘にはしてほしくない。絶対、絶対にだ。

 

性教育について、本気出して勉強しないとな。一番に守らなくてはいけない存在だし、一番近くで教えてあげることができるのは、やっぱり親だから。

 

東日本大震災から11年。3.11をどう過ごすか悩みながら迎えた日。

2022年3月11日は、大震災と同じ金曜日。その日をどう過ごそうかと悩みながら一日が始まった。毎年、朝一番に震災で子供を二人亡くしてしまった友達にラインを送る。ひとつ送るのにいつも何十分もかかる。言葉を選んで、一語一句悩みながら書いては消し書いては消し、やっと送る。いつも「返信はいらないよ」と最後に書くけれど、必ず返信をくれる。今年返ってきたラインには

「今年は涙が流れず笑っていられる。例年と違う感じ。何か心境の変化があったのか、毎日が充実しているからか。寂しさは同じはずなのに。。。。でも、そんなママを見て喜んでくれていると思う」

と書いてあった。

年を重ね、変化している気持ちをためらったり、後ろめたく思い自分を責める人も多くいるだろうと思う。10年目震災と向き合った私も、そういった感情が出てきたり、自分を納得させたりしながらいた。

けれど、どんな時でも前向きな言葉がすっと出てくる友達には本当にはいつもハッとさせられる。涙ながらに何十分かけて返事を書いたけれど、結局短くして送った。この日の時間を私に使わせてしまうことにいつも申し訳なく思ってしまうのだ。

 

この日は、とりあえず海に向かった。そう決めてお家を出ようとしたら、急にあわあわしてしまい、あれも持っていこう、あ、トイレ、とか、車とお家を何度も往復してしまった、、、動揺している。そうだ、かなちゃんについてきてもらおう、とカナヘビのかなちゃんを助手席に乗せて出発。とても心強かった。

ラジオを聴きながら海に向かう途中、だんだん涙が溢れてきて、最初に向かった慰霊碑で堪らず号泣。鐘をひとつ鳴らして手を合わせた。

そして海が見渡せる駐車場に車を停めて、長い時間海を見つめていた。

海は広いな、大きいな

ずっとこの言葉が頭の中をまわっていた。なんでだろう。

海が大好きで大好きで、海に関わる仕事を選んだ私。だけど、あの黒い津波を見てから、海が怖くて近づけなくなってしまって、そんな風になってしまった自分に傷ついて。海を見るたび涙を流した。海を落ち着いて見れるようになったのは4年後くらい。

いつだったか、あ~私やっぱり海が好きだな、って思えるようになった。

そう、私はやっぱり海が好き。

海っていいな。

そう思っていいんだよ、って自分に言い聞かせながら。

 

2時46分は、お家にいようと思いテレビの前で正座しながら娘の帰りを待つ。なかなか帰ってこないのでソワソワしていたら、その時が来てしまった。

今年は一人で黙とう。

 

帰ってきた子供たちをそれぞれぎゅっと抱きしめる。

震災の年に生まれた息子はもう膝の上には収まらないくらい大きい。

 

温かい夜ご飯を、家族そろって食べた。

 

感謝。

震災トラウマと向き合った10年目。今だから言える11年目。私の東日本大震災。

明日で、東日本大震災から11年。

震災関連の報道を見られるようになったのは、10年目となった去年。

自分が震災トラウマだと認識したのは5年前。

震災後は毎年2月くらいから、胸の辺りが苦しくなり、まるでゾウでも乗っているかのような状態になってしまっていた。

その状態は3月11日2時46分を迎えるまで続き、じわじわ私を苦しめた。

そして、その時間を迎えた瞬間に、堰を切ったように嗚咽と共に吐き出す。一通り泣き終えるとゾウはどこかへいなくなる、と言うことを毎年毎年繰り返していた。

その瞬間まで、今年はあんな風にはならない、と平然としていても、その瞬間に体の内側から、何かが噴出してきてしまう。自分ではどうしようもない。

3年目には、全身にひどい蕁麻疹が出た。

そして、5年目。まだ震災の日も遠い時期に職場で避難訓練があった。

一般客の役として同僚と談笑している時に、

「大きな地震があり津波予報が発令されました・・・(訓練放送)」と放送された瞬間、

私はパニックになってしまった。

子供のように「怖い・・・怖い・・・」と言って、震え泣き出した。

みんなびっくりしていたが、私自身もびっくりだ。

そっか、私トラウマになっているんだ、とその時に、認めた。

 

あの日、私は実家にいて両親と共に高い場所へ逃げた。

家は津波で流されてしまったけれど、他の家族も直接の親しい友人知人も命は無事だった。

真っ黒な津波を背中に逃げたけれど、呑み込まれたわけではなかった。

けれど、あの真っ黒な津波は本当に怖かった。

余震が続く寒い部屋で、みんなで身を寄せ合った夜は不安につぶされそうになった。

 

その後、親しい友人2人が親が亡くし、高校の同級生が亡くなっていたことを知った。

避難中、私は初めての赤ちゃんがお腹に宿っていることを知った。

そのすぐ後、部活が一緒だった友達が、子供2人と義両親を亡くしていた事を知った。

 

周りの状況がわからなすぎて、自分はなんて大変な目にあっているんだ、とばかり思っていたけれど、想像をはるかに超えて、本当にみんなみんなみんな大変な思い(表す言葉がなくてすみません)をしていることを知った。

 

そんな私がトラウマになってしまったことを、なんだか申し訳なく思ったり、情けなく思ったりした。

 

震災後からずっと、震災関連の報道や記事は見れなかった、見ることができなかった。

テレビで流れれば、無意識にチャンネルを変えていた。

 

でも、10年目、私は、震災と向き合ってみようと決めた。

 

一番初めに、ずっと、行けなかった友達のお子さんのお墓参りに行かせてもらった。

これは自己満足に過ぎない、と何度も何度も迷ったけれど、お墓に行って手を合わせさせてもらった。

亡くなった時、まだ小さかったお子さん達も、生きていれば高校生になる頃だ。

でも、子供向けのお菓子やジュースを持っていってお供えした。今の私の子供と同じ頃だ。

自分が泣いてしまっていいのか、と思うけれど、堪えずにはいれなかった。

 

震災と向き合おうと決めた時に、何か出来ることがあったら、と声をかけていた中学校の先生をしている友達から依頼を受けて、震災の出来事を中学生に話す機会もあった。

震災の日を振り返りながら向き合う事ができた貴重な時間を作っていただいて、本当に感謝している。

 

それまで避けていた、報道や記事もできるだけ見た。

知らない映像、知らない事実がたくさんたくさんあって、何度も何度も泣いた。

脳みそがぼーっとするくらい、泣いた。

 

10年目の震災の日は、朝から宮城県の荒浜地区へ出向いた。

亡くなった同級生はこの辺りに住んでいたと聞いたような気がしたから。

せんだい3.11メモリアル交流館や震災遺構の小学校も行った。

何箇所かの慰霊碑を回り同級生の名前を探したけれど、見つけられず、ただ手を合わせた。

 

震災に向き合う時、静かに涙が流れることもあるけれど、私はどうしても嗚咽してしまう。

一気に体の内側からこみあげてくるのだ。声も出てしまう。ただ時間は短い。

震災と向き合った10年目、色んな場所で、一人の時もまわりに人がいる時も、たくさん嗚咽した。

 

そうして家に帰り、2時46分、娘を膝に抱き手を合わせた。

10年目のその瞬間、私は嗚咽することはなかった。

 

何かを乗り越えた、とかそういう感じではないけれど、何かが動いた感じがした。

 

全部全部、自己満足なのはわかっている。

なにをしても辛い出来事は消えるわけではないし、辛い思が消えることのない人の事を考えると何も言ってはいけない気になってしまう。

けれど、毎年毎年、この日はやってくるし、自分のタイミングで向き合うしかなかったと思う。

 

明日また震災の日だ。

今年、私の胸にゾウはのっていない。

震災の報道も、チャンネルをかえないでできるだけ見ている。

明日は毎年そうであるように、大切な家族と一緒に、いつもより大切に一日を過ごしたいと思う。

 

最近、「10年過ぎたからやっと言える、やっと振り返ることができた」と言う言葉もよく聞く気がする。

だからと言って、開放されるわけでもないし、それをできずにいる人がまだ多くいるのも事実。

 

震災を経験した、大勢の人の中の私の出来事。

ただそれだけ。

 

教訓なんかはないかもしれないけれど

近いうちに、時間をかけて、記していけたらと思う。

 

あの出来事は、私たち家族にとって切り離せない出来事だから。

 

 

 

 

 

引っ越しの時に捨てよう!は間違いだった・・・

ブログ超初心者です。(ほんとは超×10初心者)

色々調べすぎて、書く事を迷いすぎて、どこに向かっているのかわからなくなってしまったので、お題に参加します。

「引っ越し」がお題になるなんて、、、春ですねぇ。

 

数えてみたら、今まで大小合わせて8回の引っ越しをしていた事に自分でもびっくりしてます。

(え?本当にびっくりです。このお題に参加しなかったら、数えることもなかったな)

 

そのうち、寮に入ったり、友人宅に居候させてもらったりした時の身軽な引っ越しが5回。

家具ごと引っ越したのが3回です。

 

その中でも、家庭を持ち子供もいての直近の引っ越しが一番大変でした。

結婚式目前に妊娠が判明し、色々あってとりあえず入居した2LDKのアパートには約3年住みました。そのアパートには、妊婦で住み始め、3年の間に子供は2人に増えました。

慣れない子育てに追われる日々の中必要なものはどんどん増える一方で、収納場所にとりあえず詰め込み、入りきらないものが部屋に次々とあふれていく感じでした。

仕事はしていなかったので、たまに整理整頓はするけれど、当時は「断舎利」という言葉も今ほど浸透しておらず、SNSからの情報もさほどなかった時代だったので

「今度引越す時に、要るものと要らないものを分けながら「荷造り」すれば一石二鳥!」

と、それが一番ベストだと思い込んでいたわけです。

 

そして、いざ引っ越しの時。

当時、3歳と1歳の子供を抱えての引っ越しとなったわけですが、結論から言えば

「全て詰め込んで移動しただけ」

 

小さな子供がいただけではない、引っ越しの時断舎利が進まなかった理由は・・・

・引っ越し先の方が部屋数も多く広かった!

「荷解き」の時に要らないものを捨てていけばいいじゃん!と思ってしまった!

 

そもそも2LDKの小さなアパートに家族4人分の荷物が溢れかえっていようとも、大した量ではないわけですよ。

実際、引っ越し業者に運んでもらったのは、冷蔵庫と洗濯機とダブルベットの3点のみ。

あとは、衣装ケースやダンボールにぽいぽい詰めて、車で何往復かで運べましたから(片道20分くらいのお引っ越し)

一部屋ずつは小さいけれど、4DKへの引っ越しだったので、そのまま荷物を運び入れてもそれはそれは広くて、「私ってミニマリスト?」と勘違いしてしまいそうなくらいでした。

(当時そんな言葉はなかったけれどね)

 

そのまーんま、使うものだけ引っ張り出しながら生活していき、結局断舎利は進まないまま、今も開かずのダンボールがあるかもしれません。

 

しかし、今、私はお家を探しております。

また、引っ越しするかもしれないのです。

開かずのダンボールの中身が解き放たれる時が来るかもしれません!

そして、次こそは「荷造り」にきちんと向き合って進めようと思います。

 

でも、実際子供がいての引っ越しは大変ですよね。

成長に合わせて、やる事も考えなくちゃいけないことも、大きく変わります。

間取りだけでなく、学校のこととか、その先の通学のこととか、悩ましい日々が続きます。

 

今は、物件探しつつ、引っ越しの時慌てないように少しずつ少しずつ、持ち物の見直しや収納を整えていきたいと思っています。

 

 

 

 

FP3級試験 ほとんど勉強してないけど合格しました

FP3級短期間の勉強で一発合格しました!

 

↑こんな見出しの記事よく見ますよね。実際、私もどうしたら合格できるのかと、読んでみると、まあ大体がFP関係の経歴の持ち主だったり、普段から勉強されている方がほとんど。

では私はと言うと、、、

 

【FP3級合格した私はこんな人】

・アラフィフ主婦(パートを短期間&短時間)

・小学生低学年二人子育て中

・中よりちょっと上?くらいの高卒(大学はいってません)

・結婚する前は仕事に関する資格を積極的に取得ており、多少試験慣れしている(危険物乙四/機械保全士2級/フォークリフト/潜水士/船舶一級などなど)

・10年以上、資格取得のための試験は受けていない(受講するだけの資格はぼちぼちとりました)

・基本的に一夜漬けタイプ

↑この情報は意外と重要だと思うのです。特に「試験慣れ」していないと、短期間での合格は難しいかなと感じました。

 

 

【受験のきっかけ】

あるきっかけで宅建を受けてみようかと思いたつも、準備期間が短いと考え「宅建の試験に慣れるためにFP3級を受けてみるのもいいかも」と言う記事を見て、宅建よりももっと興味のなかったFP3級を練習のつもりで受けてみることに。

 

【FP3級試験&申し込みについて】

10月に試験があり、受験を意識したのが、6月。

その時の申込期間が7月6日から7月27日だったので、あまり迷っている暇もなく、決心が鈍らないうちに申し込み、受験料6,000円を振り込んで迷いを断ち切りました。(これ大事、はじめの一歩として大きい一歩)

ちなみに、3級の試験は年に3回行われています。

 

【FP3級試験のために用意した本】

いくつかの記事を読んで

「みんなが欲しかった!FPの教科書3級」と「みんなが欲しかった!FPの問題集3級」を買うことにしました。特に仕事で使うわけでもないし、なるべくお金もかけたくなかったので、フリマアプリで定価より安く手に入れました。

この本は、定価だと税抜き1600円×2冊なので、3300円くらいかかりますが、2500円位でキレイな状態の本を買うことができました。本は大体12月頃に翌年の試験のための本が出版され、毎年法改正や問題の傾向を踏まえて改訂されています。自分でそれを確認できるなら、古いテキストはもっと安く手に入れることもできます。私はそんな事できないので、その年の本が欲しかったのですが、7月に買った時には売り切れが多く、中古のキレイなものを安く手に入れられたのはラッキーだったと思います。

もちろん、本屋に行って新しいのを買うのが一番早く確実です。

やる気のあるうちに手に入れるのを優先した方が良いです。

 

【FP3級のための勉強】

さて、申し込みも済ませ、本も買い、あとは勉強するだけ。

夫の弁当を作って見送り、子供たちに朝ごはんを食べさせて見送り、一通り家事をし、早速勉強しよう!(主婦の朝を文章にするとなんとまあ短く簡単なんでしょう)

新しいノートを開き、テキストを開き、読んでみます。

なるほど、1チャプター毎に読んだら問題を解くを繰り返していくのがいいのか。

私は、典型的な一夜漬けタイプで、なんでも書いて覚える勉強の仕方をしていました。

・・・・はい、10行くらい書いてこの勉強方法では終わらないと悟りました。

とりあえず、読んで問題を解くをやってみます。

・・・・・15分で眠くなっちゃうんです。まるで、催眠術にかけられているかのように。毎日「今日こそは!」と思うけれど、まるで徹夜で勉強している受験生のように、15分で寝ちゃうのです。

10年以上、勉強から離れていたらかかる催眠術でもあるのでしょう。

催眠術にかかった時は潔く15分くらい寝てしまい、やれる時はやれるだけ進めると言う感じでした。

今日こそ、明日こそ、と思っているうちに、子供たちが夏休みになってしまいました。

・・・・はい、夏休み中全く本を開きませんでした。1ページも読みませんでした。

いやあ、一緒に遊びましたね~。たのしかったなぁ。

 

試験は9月12日。すでにあと2週間あまりとなっていました。

そこまでに進んだのは、夏休み前にぼちぼちやっていた教科書の3分の1程度。

それでも、勉強しない期間を1ヶ月以上持ってしまったために、なかなか勉強する気になれず8月は終わっていきました。

9月に入り、半ばあきらめ、いやでも6,000円払ってるし、本も買ったし、無駄にするのはもったいない!と言うケチケチ精神が最後の力を出させてくれました。

その頃は、日中パートをしていたので、皆が寝てから勉強します。もう、ノートには文字はなく、問題を解くための○とか×とか、選択問題の数字がただただ雑に書かれているだけになりました。

それでも、やっぱり眠くなるので、寝てしまい、3日前で教科書の3分の2くらい。

 

予定では、過去問を3回くらい繰り返すはずだったのに、前日、教科書を最後まで読み終える気がしない!

焦った私は、遂に・・・・

「FP3級 一夜漬けで合格する方法」と検索していました・・・・。

そんな事をする暇があったら、勉強しろ、と言う感じですが、もう眠いし終わらないし、藁にもすがる思い。

結局、教科書は最後まで読み終わらず、何とか問題集だけは終わらせました。

日付は試験当時となっておりました・・・・。

 

【試験当日】

私は、この試験勉強を通じて「老眼」を大いに認めざるを得ず、老眼鏡を手に入れて勉強に取り組んでいたのですが、試験当日、老眼鏡をかけることが出来ず、勉強不足に輪をかけてパニクりました。

なぜなら、家で勉強している時はマスクをせずめがねをしていたので気付かなかったのですが、会場でマスクの上にめがねをかけたら、どうしようもなく曇ってしまったのです・・・・。想定外。

なにをどうしても曇る。お手上げ。早々に、めがね無しで試験を受ける覚悟を決め、目を慣らしていきました。老眼鏡になれてしまっていたので、結構きつかったです。ギリギリに会場に行っていたら、ちょっと試験どころじゃなかったかもしれません。

 

試験は、わかったところより、自信がないもしくは全くわからない方が多かったです。正直。

時間には余裕がありました。見直して、間違いを訂正できたところもありましたが、考えれば考えるほど迷ってしまう問題や、考えても考えても勉強した記憶がない問題もありました。

 

【FP3級合格発表】

問題用紙は持ち帰ることができますので、早速答えあわせをしてみました。

意外にも、実技は合格できる手応えがありました。でも、学科の方が、ギリギリで、あと一問でも自分の予想と違っていたりしたらアウトだったので、合格発表を待つしかありません。

 

結果は、「完全合格」

 

やったーーーーーーーー!!

あんな勉強でも合格した~~~

 

不合格だったら、もう一度受けるか悩んだと思いますが、学科か実技だけ合格だと気持ち悪いので多分また受けることになったでしょう。

それがない!と言う喜びが一番でした。

 

【FP3級受けてみた感想】

こんな感じでも受かったので、さほど難しい試験ではないかもしれませんが、あまりそのまま鵜呑みにするのは危険だと思います。私が言うのもなんですが・・・勉強はした方がいいです。

勉強を通して、お金のことを色々知ることが出来たので、受けてみてよかったと思える資格でした。逆に私はこんなことも知らずに今まで生きていたのか・・・と思って自分の無知さを痛感。専門的な知識だけでなく、生活するうえで知っておいたほうが良い事をたくさん学ぶことができたので、よかったです。

 

ただ、合格のための勉強になってしまい、実際は身についているとは言えないのが残念。何か困った時は、そういえば・・・と調べることが出来るようになっただけでも良しとします。

 

 

 

 

 

雛人形持ってる?雛人形持ってない我が家の理由と過し方


昨日は3月3日、雛祭りでした。

我が家には息子と娘がいるので、雛祭りも端午の節句もスルーできません。でも、子供が出来てから度々思うのですが、伝統的な行事の意味が本当によくわからない→意味が分からないのでやりたくない→伝統文化を子供に伝えられない、と言う由々しき事態に陥っております。

やりたくないなら、やらなければいいじゃない!と思うかもしれませんが、私たちの子供達は、「子供」と言う存在だけでなく、「孫」と言う存在も兼任していますので、それらを親の都合だけでスルーしてしまうには、難しい場面も出てきます。

「お宮参り」??「百日参り」??などと、はてなをいっぱい散りばめさせて、実母からの攻撃をかわしながら子育てしてきましたが、「五月人形買う買う攻撃」「雛人形買う買う攻撃」には、本当に困ったのを思い出します。○○参りなどと違って、毎年毎年やってくるわけですから。

「買ってあげると言うんだから買って貰ったらいいじゃない」と思うかもしれません(親にもそう言われ続けました)そもそもあまり興味がなく、私自身雛人形を欲しいと思ったことがなかったわけですが、要らないわけではないのです。

 

「置く場所がないんだよぉぉぉぉぉぉ!!」

 

飾る場所もなければ、保管する場所もなく、さらにはきちんとお手入れしたりする自信も全くない。

なので、その都度その都度、それを説明し丁重にお断りさせていただいていました。

でも、子供が成長するにつれ、私(親)の判断はよかったのかな?買ってあげた方が良かったのかな?などと思うようになりました。

なぜなら、五月人形雛人形を代々引き継いでいると言う話や記事をよく目にするようになったからです。正直、すてきだなぁと思います。最近は特にそうですが、安いものを次々買い換えていくよりも、多少高く買ってでも長く大事にしてきたものに惹かれるようになった気がします。

服だって、食器だって、安いもの安いものを求め、使えなくなるどころか、汚れたり飽きたりしただけでも手放したりしてそれが普通になっていました。クリスマスや雛祭りだって、100均のシールを壁に貼って終わりにしちゃったり。「やるだけえらいよ~」なんて言われることもありますが、たまに空しくなることもあります。

そんな私ですが、お祝いや行事は大切にして、自分なりにやってます。

雛祭りも、正直「何をすれば雛祭りなの?」などと毎年ぶつぶつ言いながらも、夜にはご馳走作ってお祝いしています。

大体は海鮮ちらしと、デコレーションケーキを毎年作っていて、オードブル的なものはその年によって違います。

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ひな祭りメニュー 2022

 

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ひな祭りデコレーションケーキ 2022


大人は一番しぼり、子供はペコスカッシュ白桃で乾杯♪

永谷園の「はますい」つけてみたけど、子供達には不評でした)

 

危なくスルーしてしまうところでしたが、我が家の雛人形はご飯の写真に写っているやつです笑

小さいながらも「玄関の靴箱の上」に飾っているし、なにより食卓に置けるので眺めながら食べたり写真撮ったりできます笑

 

最後に、私がいつもなあなあにしていしまっている「雛祭りとは」について

3月3日の桃の節句のこと、女の子のお祝いをする日であることは知ってます。

調べてみると、女の子の健やかな成長を願って、雛人形を飾ったり、縁起の良いものを食べてお祝いをする、と言うことらしいです。簡単に言うと。

(かなり簡単、しかもほとんどの方が知っているレベルの情報)

調べれば、もっともっといろいろな情報あり、ふむふむと思いました。

(そこは書かないんかい)

 

雛飾りをし、なんとなくこうだろうと思って作っていたメニューも縁起の良い雛祭りメニューに当てはまっていたし、よかったよかった。

 

立派な雛人形も豪華なご馳走もないけれど、何よりも、娘さんの健やかな成長を心から願っているのは確かなので、その気持ちを伝えてお祝いできればいいのかな、と思いました。

 

余談

息子さんが会話の端々で、私も女の子であり、お祝いされる側にいることを自然に言ってくれていて嬉しかったです。